+++青に染まる海
―プール―
まるで夢だったかのように、日常が戻る。
あれが、日常ではなかったというワケではない。
ただ、
自分が自分では、ない感情を抱いていた。
周りは突き抜ける空気、空、晴れていても霞む地球の空。
白の部屋。
薬品の匂い。
右肩は、完全なる回復はしないそうだ。
そう聞かされて、嘆いたのは母親と幼馴染だった。
ああ、別に……
元より、後遺症が残っていた。
それが、只増えただけで。
動かせるだけでも、まだありがたい。
それよりも、気がかりな事がたくさん残っている。
付き合っていた、彼女のコト。
行方が解らなくなってしまった、親友のコト。
そして――
おい、目を開けろっ!!!
「っ、」
体をビクつかせて、昴治は起き上がった。
息が詰まり、そしてすぐ様、感じた気配へ顔を向ける。
自分と同じ驚いた顔をする幼馴染の彼女がいた。
「ごめん、起こしちゃった?」
眉を下げて苦く笑う、あおいに昴治は瞳を瞬かせる。
「いや、ちょうど目が覚めたトコ」
体をゆっくりと起こして、包帯が巻かれた右肩に手を置いた。
痛みは、時々、起こる程度。
今は痛くない。
「オマエ、いつ来たんだ?」
「ちょうど、今よ。
来た途端に、起き上がるんだもん。ビックリしちゃった」
「悪い」
少しの謝罪を述べて、横の棚を見る。
昨日まで、お見舞いの品など雑多な物が置いてあった場所は
今ではキレイに片付いていた。
「明日で、退院ね!」
「ああ、」
頷き、白いカーテンが閉められている窓を見る。
眩しい光は、その布で和らいでいた。
「大丈夫、なの?」
「ああ、先生が言ってたんだから――」
「そうじゃなくて、」
一言、そう止めて
「明日、一人で大丈夫なの?」
右肩を触れていた手を布団の上に落とし、
昴治は息をつく。
「家に帰るだけだしな……徒歩つったて20分も歩かないし
つーかさ、歩くのに肩はあんまり関係ねぇし」
明日、退院する。
体力の低下と、地球の『環境』に慣れるのに時間が少しかかって
実際の予定日を3週間ほど遅らせての退院だ。
右肩の傷は、後遺症と痕を残し治る。
待っているのは、日常と通院生活だ。
「でも、」
だがベッドでの生活。
それでも昴治は病院内をフラフラと歩き回っていたが、
基礎体力低下は著しいモノだろう。
退院の日、
母親は出張で、幼馴染の彼女は学校から呼出があり
出迎えに行けない。
昴治の言う通り、家への道のりは数分ほど歩いて
駅の電車の乗り換えがほとんどで20分も歩かないモノだ。
「心配ないって」
俯く、あおいに昴治は笑みを浮かべる。
その笑みに、あおいは笑い返して
横の棚へ瞳を向けた。
「来た?」
「来るワケ、ないだろ」
落ち着いた、苛立ちのない声。
主語のない言葉でも、あおいが言いたいコトを理解した昴治は答えた。
瞳を昴治に戻し、あおいは彼の表情を見る。
優しく、落ち着いていて、そして空気のような
そんな笑みを
昴治は浮かべるようになった。
昴治は変わった
「……色々、悪いな」
あおいに瞳を向けないまま、昴治は言う。
「そんな、大したコト、してないって!」
元気に響く声で、あおいは返した。
昴治の唇には笑みが浮かべられたまま。
「悪い、ごめんな」
言葉が紡がれる。
真実と現実とを、含んだ言葉を、あおいは逃げずに受け止めた。
「もう! 幼馴染のよしみだって!」
昴治は瞳を向けないでいる。
それに、あおいは救われた。
相手が見せるようになった笑顔は、昴治の心の遠さを感じさせる。
『別れ』を告げたのはあおいだった。
別れと言っても、付き合ったとは言えないモノだから
『別れ』ではないかもしれない。
昴治は問いかけなかった。
あおいも責めなかった。
「ごめんな、あおい」
優しい声は、前よりも増して優しく聞こえる。
心は、まだ昴治に向いているが時期に『幼馴染』に戻る。
推測ではなく、核心だ。
あおいにとっても、それが、一番な場所だった。
(ただ……)
心配なのは、一つ。
昴治は、やはり言葉にしない
(それじゃ、繋がらないよ? 昴治)
言おうとしたが、あおいは口にしなかった。
『彼女』としての最後の『意地悪』だ。
「それよりも、本当に明日は大丈夫なの?」
「ああ、大丈夫だ」
微笑み。
与えるような笑みは、昴治の本当の笑みではない。
少しの寂しさを垣間見る
目元を擦って、にっこりとあおいは笑った。
すれば、合わせたように昴治の顔を向けられる。
瞳の青は、澄んで細められた。
他愛もない話を、数時間ほどあおいと会話して
昼食の時間となり看護士が食事を運んで来る頃に合わせて
あおいは帰っていった。
もそもそと食事を取り終えて、食器が片付けられる。
何も、するコトがなくなって、昴治は暇になった。
(散歩でもしようかな……)
明日、退院。
無理をしないように医師から言われている。
歩くほどの運動は、無理の内ではない。
だが、考えと矛盾するように、昴治の体は動かなかった。
ベッドに座ったまま、カーテンが開かれた窓を見る。
空。
眩しい、空。
昴治は瞳を細めて、その空を見た。
合わせるように思考が、記憶を遡り沈む。
今では、遠い。
遠い記憶へと
「ねぇ、待って…僕、やっぱり」
「大丈夫だって、ほらっ」
小さな手を、小さな手へ伸ばす。
海へ来た。
それこそ、厳重に整備された人工海岸へ。
海ではなく、海水プールとでも言った方がいいかもしれない。
夏休みの、最後の近く。
「怖いよっ」
「大丈夫だって言ってるだろ? ほら、怖くないから」
手を掴んで、海水へ沈む。
もがくように暴れる、その子の手を引き
浮かんで、遠く。
泳ぐ。
凡人程度の昴治でも、
普通より上ぐらいに、泳ぎは得意だった。
何事に対して、臆病な割に呑み込みの早い彼には珍しく
相反するように泳ぎは不得意の方で。
昴治は導くように、海の波間を書き分けて
「兄ちゃんすごいね……お魚さんみたい」
「そうか?」
笑う、弟は大事な存在だった。
それは遠い。
今では遠い。
弟は、泳ぐ自分を魚と例えたが
水槽の中で生きる
魚と同じ
――昴治っ、
沈んだ記憶が近くの記憶を呼び起こす。
鉄に囲まれた、あの空間。
安堵が包まれた中で、再度降りかかる緊迫。
友人の声が霞む。
ああ、俺は死んじまうみたいだな…
ぼんやりと、そう思っていた。
意識が、沈んで
もう開きはしないだろう瞳を閉じようとする。
――おい、目を開けろっ
声が
声が留める
何かの声に、そう昔の
弟が、泣く前の声に
「……」
昴治は瞳を閉じた。
そして開けば、記憶が思考から遠のく。
自分は、今生きている。
死んではいない。
(そっか………)
自分は、誰かを待っている
自分は、此処で誰かを待っている
クツリと笑い、昴治は瞳を開いて周りを映した。
日常が此処にある。
それだけで、幸せだというのに。
人間は、そう、欲深いモノだから
そして、自分は思いの外、ある一定のモノに執着心が強い
――目を覚ませっ
「オマエが、そんなコト言うから……目、覚めちまったじゃないか」
一人呟いてみた。
言葉の意味は、ある一人を抜かして、誰にも解らないだろう。
閉鎖された、この空間を泳ぐ
得意である、泳ぎで
今は、もう泳ぐコトも辛いモノになってしまったけれど
自分は、まだ泳いでいる
――目を、閉じんじゃねぇっ…よっ……アニキっ!!!
此処で――
(続) |